Family Album Text

 

母が突然、逝ってしまった。クリスマスの夜、ケーキを食べてワイン飲んで、テレビで浅田真央の滑るスケートを観ていたぼくは、コタツの中で居眠りをしていた。電話が鳴った。

受話器を取るまでもなく、昼間に電話で   会話した母を思った。「どう元気?」「あかんわ、ちょっとしんどい。」 弱音を吐くような母ではなかったはずが、弱い声だった。

写真家として反省することを挙げろと言われたら、母をきちんと撮った写真がないことだ。失格である。

    あまりに突然で、父を含め家族は混乱した。ぼくも途方にくれた。通夜も葬儀も狂ったように写真を撮った。泣いた。幼い頃のぼくについて、当然ながら母は何でも知っていた。でもそれを尋ねる母はいない。興味がなかった家族アルバムの存在が気になった。ぼくが生まれた頃は、出産祝いに分厚く重いフォトアルバムが定番だった。父は月給を貯めて買った Fujica35Mで、ぼくの成長を撮った。父は写真を趣味にしていたわけでもないが、三脚、フラッシュ、フィルターを買い揃え、吉川速男の「寫眞の写し方」も持っていた。それらのネガは全く残っていないが、家族アルバムに貼られた写真がある。それを頼りに、記憶と重ね合わせ、ぼくの人生を遡る。家族アルバムは、妹が登場する頃にはカラーになり、二冊目の途中で終わっている。ぼくがそのカメラを使い出したのは、その頃だ。

 

2000年から一年間、奨学金を受けて、妻とともにアメリカに滞在した。零下の冬の夜は写真集を見て過ごした。ふと、絵画に模写があるのに写真に複写がないのはなぜだろうと思い、写真集の複写を始めた。ファインダーいっぱいに写真をのぞいたら、撮影者の眼や脳に入り込んだような錯覚がして、その気持ちがちょっとだけわかった気がした。そこで、家族アルバムの一部を複写して物語を再構築しようと思った。写真を複写するアプロプリエーションの作家は、アメリカのシェリー・レヴィーンなど他にもいる。ぼくの場合は自分についての物語を組み立てるという点で少し違う。そして、それは「写真を読む」という作業でもある。

 

2011年の東日本大震災と津波が起きた。多くのボランティアが泥に埋まった写真を洗い、複写して、持ち主や家族に返す作業を進めていた。人生にとって写真は大切なものなのだ。

そして、ぼくは家族アルバムをもう一度紐解き、アルバムの続きを作ろうと思った。 (吉川直哉)