阿蘇山晴子展テキスト全文紹介

 

測気象ACTⅧ -水-

HITONOSAURUS

 

 

 

 

 

Ⅰ 70年間生存してきた。老朽劣化もかなり進み、頭は元気、心と体はもともと丈夫であっても、運動機能、特に足腰の動きが大変苦しい。 背骨の間をつなぐ軟骨がすりへり、脊椎側弯症と言うらしい。HITOは、4本足2本足3本足となる生き物だとスフィンクスはアレキサンダー大王に謎をかけた。私は3本足の時代に入ったのだ。更に4本足の時代への退行の可能性を視野に入れたとしても、許された時間が過ぎれば、必然的に滅亡するのだが。 ちなみに、輪廻転生が叶い、又HITOとして生まれ変われるものなら、DNAは今生通りで、海に開けた大きなお寺の娘に生まれたい。成長したら獣医学部に進学して獣医となり、古生物学を専攻して恐竜の研究に取り組みたい。

 

 私は幼年時代より恐竜に強い関心を持ち続けてきた。図鑑文献を各時代  ごとに揃えてきて60年程にもなる。スピノサウルスに出会ったのは、映画  「ジュラシックパークⅢ」を見た時のことである。この時には創作された恐竜であると思っていた。

 

 しかし2016年、国立科学博物館にて「二大肉食恐竜夢の競演展」が開催され、スピノサウルスは実在した恐竜であり、その化石発見については歴史的にドラマチックな物語がある事を知った。会場を遊泳する巨大なスピノサウルスの復元された骨格標本と、対峙する最大級のチラノサウルスの骨格標本に、私は圧倒され感動しかつ深く満足した。私は図録と雑貨、そしてスピノサウルスとチラノサウルスのフィギュアを抱えて、意気揚々と帰宅した。

 

 

 

Ⅱ 時間は、映画「ジュラシックパーク」が公開された1993年夏にさかのぼる。スティーヴン・スピルバーグの手になるこの作品は、あたかも本物の恐竜と出会えたかのような、かつてないリアルで感動的な名作であった。ちょうどその夏、私は上野の東京都美術館で開催されたCAC現代アーチストセンター展で、色文殊展を企画し、第一彫塑室のフロアの中央いっぱいに布を主にした素材による大型のインスタレーションを設置出品していた。上階の企画展に来館していたフランスの某美術系教授が、吹き抜けから見える私の作品を発見して下さり、我々の会場まで来られたのだ。某教授は、阿蘇山晴子という作家がいて、一目見て女性の作家の作品である事、日本の作家の作品である事、特に赤が日本の赤である事、そしてニキ・ド・サンファールと共通する表現や基盤があるという事を、その後立ち寄られたギャラリーや美術関係者に話されたとの事である。あいにく会場に不在であった私は、真木田村画廊のオーナーであり美術評論家でもある山崎信郎氏よりこの話を聞いた。山岸氏は、パリ等でニキ・ド・サンファールの作品を見たり体験されたとの事で、確かに阿蘇山晴子の作品はニキ・ド・サンファールの作品に共通するものがあるとの御意見であった。

 

 私はニキ・ド・サンファールを知らなかった。親しい美術家や美術に明るい友人に問い合わせたりもしたのだが、1993年当時ニキ・ド・サンファールは日本では広く知られる存在ではなく、文献図録等も見当たらなかった。私はその頃海外主張の多かった夫がドイツに出向く際、ニキ・ド・サンファールという女流アーティストの文献、それもできるだけ本格的なものを調達してくれるよう依頼した。手にした文献は確かに非常に本格的なものであったが、ドイツ語であったために辞書を片手にタイトルを判読する程度にしか読めなかったのだが。カラー図版で見るニキ・ド・サンファールの作品世界は壮大なスケールのものであり、華麗で豊かな色彩に満ち溢れ時にユーモラスでさえある想定外の造形が至る所に見うけられた。本来発達心理学が専攻である私は、当時指導していた児童養護施設の子供達のために各種の講習を受講していた。 その一つである箱庭療法の実技として作成した作品の一点とまるでそっくり酷似している図版を、このニキ・ド・サンファールの文献の中に発見した私の驚きを御想像下さい。もしもあなたが、20世紀を代表する世界的女流アーティストと 作品が似ており、共通する表現基盤があると指摘されたらどうします?大いに危機感を感じた私は、では一体阿蘇山晴子とは誰なのか?阿蘇山晴子のオリジナリティーある作品世界とはどういうものなのか? という問いの答えを求めて長い探求の途についたのだ。

 

 それから22年後の2015年秋の事、六本木の新国立美術館でニキ・ド・サンファールの回顧展が開催された。出向くかどうか思案中の11月に、NHK Eテレの新日曜美術館でこの回顧展が紹介された。これを見た私は、美術の発表活動に入ってほぼ40年間で一番の驚きと衝撃を体験したのだ。学芸員さんの解説によると、ニキ・ド・サンファールは12才の時父親により性的虐待を受けている。成長して結婚し子供も生まれるのだが、精神的バランスを崩して精神科に入院していた時期があるとの事である。その時に担当した精神科医やスタッフが、ニキ・ド・サンファールにとった治療の手法がアートセラピーなのであった。私はかっこよい言い方をするとアーティストでアートセラピーを手法にするセラピストである。ニキ・ド・サンファールは、セラピストにアートセラピーを受けたアーティストなのだ。確かに共通の基盤に向きあう形で矢印がむいているのは本当の事なのだ。しかも更に1993年夏東京都美術館で発表し某教授が発見して下さった私の作品は、養護施設で指導していた小学2年生の女児の父親による性的虐待を表現する痛ましく強烈なインパクトを持つ作品をモティーフにいかにこの女児を魂の殺人とも呼ばれる父親による性的虐待から解放し、PTSDを発症してしまわないように指導するかという事をテーマとして制作したものだったのである。ニキ・ド・サンファールが父親による性的虐待を公表するのは、1994年自伝『私の秘密』によってである。某教授はさすがであった。私は作品から何もかもお見通しで見抜かれたのであった。私は六本木までニキ・ド・サンファール展を見に行かざるをえなくなった。美術館に着いた私は、大いに緊張してすぐには会場に踏み込めなかった。しかし会場を通り進むうちに安堵する気持ちが生まれた。この十数年来の私の作品とニキ・ド・サンファールの後半の作品を似ているという人はもはやいないであろう。確かに前半にはアートセラピー作品の範囲にあると見えるものも多い。しかし後半に至るにつれ作品の性格は変わっていっている。ニキ・ド・サンファールは女性として解放と自律を達成した偉大なアーティストである。しかし私とは違う。

 

 阿蘇山晴子がどう進むかという事に大きな転機を得たのは、1997年千葉県の芝山仁王尊観音教寺との出会いによる。このお寺を会場とした野外展に参加した私は、当時の副住職との御縁をいただき貴重な御教示御指摘を得た。これにより私は、私自身と内なる仏教に覚醒するのだ。あらゆる生生流転は、釈尊の大きな慈悲の光の中にありその中でいかに自らが生かされていくかに気づく事なのだ。だから作品の外観が似ていようがいまいが、全くそれに捉われるには及ばないという事なのだ。阿蘇山晴子は答えを得た。しかし   阿蘇山晴子は誰か?という問いかけはニキ・ド・サンファールの登場によって得たものである。私にとっては運命的な出会いであった。ありがとう ニキ・ド・サンファール!

 

 

 

Ⅲ スピノサウルスが歴史に登場するのは1915年の事である。特異な胴椎と顎をもった巨大な恐竜の新種として、ドイツのエルンスト・スローマによって発表されたのだ。バイエルン州立古生物地質博物館に展示されていたスピノサウルスの化石標本は、不運にも1944年連合軍の空襲により消失してしまう。以来スピノサウルスは、長年謎の恐竜となってしまったのだ。ほとんど地球レベルの運命とでも呼ぶべきかスピノサウルスは再発見される。ニザール・イブラヒムという人物の登場によって。ニザール・イブラヒムは子供の頃より消失したスピノサウルスに関心を持っていた。2008年博士課程の学生であった彼は、あるモロッコ遊牧民より化石を買い、その中にスピノサウルスのものと思われる化石もあったのだ。同じ遊牧民から購入したミラノ市立自然史博物館の化石の中にも、スピノサウルスの同じ部分の化石があった。2013年ニザール・イブラヒムは、他の研究者達と共にモロッコに渡り かの遊牧民をさがした。劇的にかの遊牧民に再会したニザール・イブラヒムは遊牧民を説得し、遂に発掘現場を特定するに至るのだ。その地層からは次々と追加標本が発見され、ドイツで消失したホロタイプ標本についで、ネオタイプ標本として発表されるのだ。スピノサウルスは確かに実在する恐竜であった。これを奇蹟と呼ばずに何と言おう。私はこうして2016年国立科学博物館「二大肉食恐竜夢の競演展」でスピノサウルスの巨大な骨格標本に出会ったのだ。

 

 悠久の水の流れのような地球規模の時間の中で、奇蹟の発見を待ち続けたスピノサウルスの化石。少年の頃よりの興味を見失う事なく数々の幸運な出会いに支えられて夢を実現したニザール・イブラヒム。夫や家族である猫達と共に暮らす大切な日常の基盤に支えられて、HITOとして生存する時間が許される限り 志と夢を実現する事を願って生きよう。満天の星空に、私はスピノサウルスの咆哮を聞いた。

 

阿蘇山晴子